2-8
「ただいま」
「はい、おかえりなさい」
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自宅に帰り着いた俺は、玄関先で言った挨拶を居間に入るときにもう一度言って返答を得た。
顔を上げずに液晶画面を見ながら母さんは三人掛けのソファの真ん中に座り、クリアのリビングテーブルの上に仕事用のノートパソコンを置いてカタカタとキーボードを揺らしていた。
その左腿には、ブランケットをかぶったくるみが小さな丸い頭をのせてサラサラのショートヘアを流していた。すやすやと穏やかに寝息をたてて丸めた幼い体を上下させていた。母さんの腹のほうを向いて眠る幼児のまぶたはたぶん、まだ少し腫れている。
昨日につづいて今日。しかも今日は俺の意思で泣かせている。
明日はどうだろうか。
小さな頭部を見つめて感じるのは、胸にあるかすかな戸惑い。
なっちゃんに言われた。葵ちゃんにも言われた。
くるみのことだけにはなるなと。
だがそれでも大事にしようと思う気持ちがある。だけどこの子の傍にいるのは俺だけじゃない。兄だけではない。しかしだからと言ってそれは放っておいてもいいということでもないだろう。
…難しいな。
己の手の平に視線を落とす。
俺はどうやってこの子と接していくべきか。
血の繋がりがない、ということがことを困難にしているのは確かだった。よくよく考えて友人たちの言葉は存外難しいことを言っているのだと思い当たる。
まあ、探していくしかないか。
義妹との付き合い方も。母を中心に据えない生き方も。
軽く手を握り、もう一度開いた。
「どうしたのよ、ぼけっと突っ立って。悩みがあるんならコーヒータイムとしゃれ込んで相談にのるけど?」
気づけばキーボードが鳴る音はやんでおり、母さんは頬杖をついて俺の面白みゼロの無表情を面白そうに眺めていた。
「つまりコーヒーを入れてほしいと」
「察しがいいわねえ」
「誰でもわかる」
あっはっは、と母さんはいつものように明るく笑う。
その気遣いをありがたく受け取って、俺は母の望みどおりにするためコーヒーを入れに台所へと行った。
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「あ、ちょっと辰。そっちじゃなくてこっち。こっち座んなさい」
「いや、狭いだろう」
濃い香りを湯気と昇らせる山水画のマグカップとコーヒーカップをのせた小盆をリビングテーブルに置いた俺は、向かい側のソファへと座ろうとした。
それを母が止めてちょいちょいと手招きをして呼び寄せる。母さんを挟んだくるみとは反対側、空いたスペースに座れと言う。
「まあまあいーじゃないの。たまには甘えさせてよ」
「14の息子にか」
「そう、14の息子に」
笑顔のままに答える母の真意はわからない。
だが言う通りにした。答えてほしいことがあるし、無理に反抗するほどのことでもない。
くるみを起こさないように静かに母さんの横へと腰掛けた。
日常生活ではあまりここまで近付くことはない、すこし特殊な位置。
ただそこに腰を落ち着けただけで気分が細く収束していき、また舞うように散らばっていき、そうしてそこかしこに浮遊する。
落ち着くというのか、覚醒してるのに眠気を感じるというか、めずらしいその安寧とした感覚は得がたいものだと思う。
「さくらちゃんというのは、例の辞めたというお手伝いさんのことか」
しかしそれに浸ることはせずに、昼間くるみが叫んだときに出てきた名前について訊いた。母と離れる必要はなくとも、甘えることはたぶんするべきじゃないと思う。
それに、訊いておきたかった。
くるみが俺にその人の代わりを求めているのならば正してやらないといけない。
母さんは手を止めて首を傾げて俺の横顔を見ると微笑んで、静かにソファに身を沈めた。左腿のくるみの頭が動かないように。ゆっくりと。
そうして片手でくるみの頭をやわらかくなでると、上を見て蛍光灯あたりに視線をやって話し始める。
「佐倉咲耶(さくらさくや)ちゃんっていってねえ、ずいぶんと奔放な子だったわ。今頃もどっかで誰かに迷惑かけながら楽しそうに笑ってるんじゃないかしら。案外、日本にはいないかも」
そこであっはっは、と母さんは軽く笑う。そして上を見やりながら続ける。
「くるみちゃんとはほんとうによく遊んでたっけ。精神年齢が同じぐらいに思えなくもない遊びっぷりだったんだけどさ、なんだかんだしっかりしてたから同時に教育とかしつけもこなしてたのよ。…考えてやってたのか、天然だったのかはわかんないけどね。まあ大概は天然だったんだろうけど。あの子のあの様子じゃあねえ」
思い出すように、口の端にしわを刻んで笑みをかたどる。
その横顔を俺は見ていた。語る母の様子から、伝わるものがあるからだ。
母さんは視線を落として、背を折って小盆の中で湯気を昇らせるマグカップを手に取った。
俺も視線を外しそれにならう。
前傾姿勢で取っ手に指をかけて持ってきたカップは湯気と濃い香りで鼻を刺激して、くちびるをつけて口内に含む苦味は強く、香りも広がる。
口から離してカップを持ちながら俺は訊いた。
「ずいぶんと楽しそうな人のようだ」
言ってカップを傾けてもうひとくち、含む。
それならばこそきっと泣き喚いたのだろうな。と、喉をすべり落ちる熱と香りを感じながら実感深く思った。
別れたときは。ほんとうに、ひどいくらいに。昨日よりも、今日よりももっと。
泣いたのだろう。
「ねえ辰。あんたがそのさくらちゃんの代わりだなんて、この子は思ってないわよ。それはわかる?」
「ああ。それは今のを聞いてわかった」
今の人物評では俺とはとても似つかない。代わりなどなりたかったとしても無茶な話だ。
兄なのだ、俺は。
友人ではない。お手伝いではない。家政婦でもない。お世話係でもない。
「さっきくるみちゃんがあー言ったのはさ、葵ちゃんと遊んでたからだろうねえ。あの子楽しいもの。辰は知らないだろうけどさ。さくらちゃんと一緒にいたときぐらい楽しかったんじゃないかなー。だからあんなするっと『さくらちゃん』なんて言っちゃったんだと思うけど」
「………………」
葵ちゃん家の子になる、か。
首を傾げて母の左腿ですやすやと眠る頭部を見た。母の腹部を向いてるせいで窺えない幼顔。
さて、『さくらちゃん』のことは何も問題がないようだというのはわかったが。それならば本来の問題へともどってきたことになる。
俺はこの子にどう接したものか。大体バイトがなくとも学校が始まればとうぜん一緒にいる時間など少なくなるわけだし。
…むしろさくらちゃんの代わりをくるみが求めていたならそれを正すことのほうが簡単だったかもしれない。
「辰はさ、」
「ん」
母さんがマグカップを持ったまま俺の顔を覗き込んでいた。
「何を悩んでるわけ」
俺は傾げていた首をもどしてコーヒーを啜る。そうしてから答えた。
「妹への接し方について」
「あら。それはまたお年頃っぽくていいわね」
含み笑いをして母さんはコーヒーを啜り、ゆっくりと体を曲げてパソコンの脇にカップを置いた。
「好きにしなさいよ」
キーボードへと手をもどして母は画面を見ながらブラインドタッチで小気味よく指を動かしていく。
「ケンカしようと、手を上げようと、大事にしようとぞんざいに扱おうとね。この子はね、あんたの妹なんだから。まーもちろんやりすぎれば止めるんだけどね」
「大事にしたいと思う。それを伝えるようにしたいが、…そのやり方がわからない」
呆れたものだ。
カップから昇る香りと湯気に顔をさらしながら自省する。
過去ずっと俺は、気にしてこなかったのだ。己の気持ちが伝わっているかどうかなどは。相手の思いなど、気にしてこなかった。
俺は母さんがいればそれだけでよかったのだ。ずっとそう思ってきて、そればかりで、自分が与える他人への影響を深く考えることがあまりなかった。
俺が俺であるこの顔が、誰かにそうそう影響を与えるなんてことも思えなかったのもある。今だって根本的なその思いは変わらない。
それと同じことで、この無表情は誰かに思いを伝えるにはあまりに不向きだ。
だいたい六歳の子どもに対して、ただ思いを伝えればいいだけなんてこともないだろうし。
…難題だ。
どれだけ思考しようと実行して方法を模索しなければ、ただ難しい、というところに戻ってくるだけか。
「こうすりゃいいのよ」
笑みを含んだ声と同時、頭のてっぺんにやわらかな感触がぽすっとのっかった。首を動かして左を見れば母さんが俺の頭に手を乗せてなでていた。
「辰は触れるっていう感情表現しないからね。やってやんなさい。こういうふうにされて思うこととかあるでしょ?」
さとすように言って母さんは俺の頭をなでつづける。すこし乱暴に髪をかき回されるのは、不思議と嫌ではなかった。
しかし
「……恥ずかしいんだが」
訴えるように無表情で母を見て言うと、きょとんとした顔をされて頭をなでられていた手が止まった。
「あっはっは。もー、あんたって唐突に可愛いからたまんないわよねえ」
「………………………」
そして満面の笑みでわしゃわしゃとさらに乱暴になでられた。
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