2-7
「あ、あれはそのっ!わ、忘れて!わ、…わすれてっ!!…あう、…うぅ……!」
真っ赤に染まった顔を両の手で隠し、葵ちゃんは髪をふわりと舞わせてその場にしゃがみこんでしまった。
…やりすぎたようだ。
「わかった。忘れよう。それはともかくお礼がしたい、葵ちゃん」
2メートルほど幅をあけて立っている俺と、その向かいでしゃがみこんでいる葵ちゃん。何の図なんだかよくわからない状況。
「う……え………?お、……おれ、い?」
顔を隠した手の指の間から、星の瞬く瞳を羞恥のせいで濡らしているのを覗かせて顔を上げた葵ちゃん。うちの中学の同級生男女問わずすべての庇護欲をかきたてるどころか燃やし尽くしそうな表情だが。
これだと俺がいじめてるような図になる。
…存外間違っていないのか?
金輪際、口にしないようにしよう。あのにらめっこをしていたことは。
小さく決意をして気持ちを改めて話を続ける。
「何かないだろうか」
「え……あの、でも私………そんな、べつに」
問いかけに今度は両の手を合わせてもじもじしながら葵ちゃんは、己の合わせた両手あたりに視線を泳がせていた。
「……その…………………………」
それきり、黙り込んでしまう。両の手を硬く握り締めて、ふるふると小刻みに肩を震わせながら。
その様子を見つめて思う。
俺はどうしても彼女にこういう反応をさせる。
たとえ料理を振舞っても、菓子を作ったとしても。彼女を遠慮させるだけなのだろう。つまりそんな程度の仲なのだ。俺と葵ちゃんは。
俺にはわからない。彼女を喜ばせることが。それは俺には出来ないことだろうか。
その思考にはすぐに反論した。
そんなことはない。かつて、できたことはあったのだから。
その過去が俺を進ませる。
一歩、二歩。アスファルト上の砂利を踏み、丸まって震える美少女へとゆっくりと近付く。俯いて顔を隠す美少女がびくっと小さくふるえた。
一歩分、1メートル以内の距離まで来た俺はそこで立ち止まり、しゃがんだ。俺は両腕を膝の上で組んで、丸まる葵ちゃんを真正面に見据える。
「ないのなら、それでいい」
話しかけた。自分の感謝を押し付けるのが自己満足にしかならないのなら、無理に言ってもらっても仕方ない。
何か考えるしかない。夕飯を作りながらでも例を挙げていこう。そう考えて、俺は彼女にさよならを告げる。
「無理にこんなところにまでついてきてすまなかった。くるみのことが気に入ったならまた遊んでやってくれ。今日はありがとう」
じゃあ、と言って立ち上がろうとして。
そこで葵ちゃんは
「ま、待って……っ」
かすれた声で苦しそうにつぶやいた。意を決したように上げた顔は至近距離で俺をとらえる。真っ赤に染まりあがった柔らかな質感さえも映える肌。大きくまたたく瞳は濡れて、苦しげに呼吸を繰り返すくちびるは潤って。かたどる髪の毛は反面、静かに脈動する彼女の胸に合わせてたゆたっている。
「…大丈夫だろうか」
持病をもっているなんて話は聞いたことがないからそういう心配はしなくてもいいのだろうが。もしかしなくてもこれは俺のせいだというのか。近付きすぎたか?
一歩、二歩。ずりずりとしゃがんだまま距離を取る。
「あ、あの……!」
葵ちゃんがあせったように手をだした。
「帰るわけじゃない。引き止めるということは何か言うことがある、ということでいいだろうか」
「え、あ、……う、うん」
手を下ろして、意を決すように手を胸に抱いて葵ちゃんは立ち上がった。
それに付き合うように俺もゆっくりと立ち上がる。
1メートル半ほどの距離をもって俺たちは向き合う。
夕陽が自分たちの周囲を照らす。その温度を夕風が奔るように舞って冷やしていく。
顔を夕陽の赤とそれ以外の赤に染めたままで葵ちゃんが震える口を開く。
「い、…いろいろと、……見て、ほしいの」
葵ちゃんは視線を外さなかった。俺を見て、何も映さないような俺の瞳を見て。途切れながらも言葉を紡ぐ。
「くるみちゃんだけじゃなくて…田ノ宮くんのお母さんだけじゃなくて……………っ、その、他にも、いろいろ……!………私たち、これから三年生になって、高校のこともあるけど……そういう先のことばかりじゃなくて、…なんていうか…っ、今のことっていうか…ずっと続いてくこと以外も…続くかどうか、わからないようなことも…………見て、ほしいの」
それは一体、何のことを言っているのか。何のことを示して言っているのだろうか。
俺をまっすぐに見ながらも葵ちゃんのあやふやな言いようは、どこか言いよどんでいるように思えた。
他人からの意識を気にすることのない俺へ言うにはそれは、いささか説教じみているからだろうか。
それとも彼女自身が、その示していることを言うのが憚られるからだろうか。
「なっちゃんにも同じようなことを言われたが」
「えっ………」
葵ちゃんは意外そうな表情をするのではなく、ただ表情を止めた。
だけどなっちゃんが言ったのと同じような意味になるとも思えない。
なっちゃんがとる俺に対するスタンスと、葵ちゃんがとっているスタンスは全くの別のものだ。俺のことがわからないという彼女が、今の発言は、俺を心配して言っているというのはどこか違う気がする。
「お礼になるだろうか、それは」
そんなあやふやなことが。
正しく伝わってるなんて思えない、そんな望みが。
だけど葵ちゃんはうん、と頭を大きく動かして力強く頷いた。
必死だった。
だけど俺は、訊いたにもかかわらずそれはお礼にはならないだろうと思う。あまりに抽象的過ぎる。第一、そういう視点をすることで彼女にどう影響するというのだろうか。
、
『そーだよ。葵ともっと話せ。お前だってあいつと友達だって思ってんだろーが』
、
そう思ったところで快活な友の今朝のアドバイスを思い出した。
変わらなければならない俺に、与えてくれたすべきこと。
無表情を無表情のままで、喉だけを動かして息をわずかに止めた。
そういう、意味なのだろうか。
薄く開けたくちびるから音もたてずに息を吐き出した。
遠回しに、自分のことを見てくれと、そう言っているのだろうか。
しかし自分でも思ったようになっちゃんと葵ちゃんのスタンスは
、
いや。
目を伏せていいわけがましい思考を遮る。
都合よく、考えよう。
歩み寄ってくれようとしているのだと思おう。
何にせよ俺はもう、母を中心にして歩くことから離れなければならない。親離れの必要があるのだ。高校生になる前の、これからその準備をするためになるこの時期に、そういう機会を得たことは決して逃していいことじゃないはずだ。
「わかった」
目を上げて、美少女のいっぱいいっぱいになったように表情を固めているのを見る。
ありがとう、と身勝手にも言いたくなったのを抑え込んで
「善処しよう」
とりあえずほかの言葉を紡いだ。
「う、うんっ!」
カチカチのままで葵ちゃんは声を裏返して頷いた。
そしてそれが恥ずかしかったのかガチン!とさらに固まってしまった。
カア、カア、カア、と遠くからのカラスの声が夕陽といっしょにのんびりと届いていた。
「では、さっきも言ったがよかったらまたくるみに会いにでも来てくれ」
踵を返す、のではなく来た道を帰るために俺は歩を前に進めて、硬直している葵ちゃんの横を通り際に、じゃあと手を軽く上げた。
「あ、ま、まって…っ」
と、呼び止められたので足を止めた。まだなにかあるのだろうか、と疑問に思いながらも振り返った。すれ違い際だったのですぐそばに葵ちゃんの綺麗な顔があった。けぶる長い髪はやわらぐような匂いをかすかにまとっている。赤の強いオレンジの夕焼けに照らされたロングウェーブは、まるで調度品のような美麗さを見せていた。すぐそばで見ると、そうとさえ思えるきらめきを持っていた。
「あ、え、えとっ……その………」
髪と同じく顔を真っ赤にして声を裏返しながら一歩、二歩、と後じさって視線と首を横にギギギとさびついてるようにゆっくりずらしながらも葵ちゃんは言葉をにごして
「ば、ばいばい……っ!!」
と、やぶれかぶれのように言い捨てたら顔を両の手で隠しながら走って去っていってしまった。
いつもの無表情で俺は呆然として見送り、疑問は全く何もかも解けないまま。
、
……………なぜ呼び止めたのだろう。
、
髪を揺らして小さくなっていく茜に染まる彼女の背中を見ながら、所在無く一人立ち尽くす。
カア、カア、と空高くからカラスの鳴き声がまた聞こえた。
俺のことがわからないと葵ちゃんは言ったが、俺も彼女のことがよくわからない。
ふう、と吐息を一つついたら、あらためて、すでに見えなくなった彼女とは反対方向を向いて俺は自分の家路へとついた。
家を出たときよりもずっと影は長くなっている。
、




